高嶺の花はどこに咲く

 冬になると、基礎体力を向上させるためのトレーニングが多くなる。
 そんな地味にキツイ日々の中、テレビで御幸の姿を見ることが増えた。プロ野球はオフシーズンの真っ只中。球団の宣伝と人気獲得のため、話題のイケメン捕手が番組に送り込まれるのは、当然の流れだったに違いない。美人の女優や売り出し中のアイドルとお近づきになれるチャンスだと喜ぶ選手も少なくないだろうが、当の御幸は「こんなことまで野球選手の仕事かよ」と恨みがましく呟いていた。

 苗字もまた、テレビ出演が増えている。この間はクイズ番組に出てきたと思ったら、初登場ながらに準優勝をかっさらっていた。高校時代から頭がよかったことは知っていたけれど、まさかここまでか。
 「最後の漢字問題、難問でしたが」「実は漢検を受けるつもりで、勉強中で」そう語る彼女は、秋ごろに見たときよりも髪が短く、肩につかない程度の長さのストレートヘアになっていて、少し驚いた。というのも、苗字とはあの問題の宅飲み以降会っていなかったし、連絡を取ることも徐々に少なく、最近はほとんどやりとりをしなくなっているのだ。
 彼女の活躍をテレビで見る限り、仕事は相当忙しそうだ。大学を中退したという話は聞かないから、両立のために相当努力しているに違いない。俺に連絡をする暇がなくなっても不思議ではなかった。それに、やりとりの中で話題の多くを占めていた野球は現在オフシーズン。なかなか、きっかけもない。
 苗字から連絡が来ていた時は(なんて返そう)と悩むことが多くて、特に食事の誘いがあった日なんかは(なんて断れば……!)と頭を抱えていた。だから、連絡がなくなってホッとするべきかもしれないのに、こなくなったらこなくなったで気になってしまうのだからどうしようもない。

(つーか……。忙しいとかじゃなくて、普通にやめたとかだったらどうしよ……)

 無意識にチャットアプリを開いて、苗字とのトーク画面を開いていた。ハッとしてすぐ、(どうもしねえだろ!)と、ベッド脇に転がしていたクッションめがけ、スマートフォンを投げつける。

 ――彼女が映画の撮影で俺の大学に来ると知ったのは、それから数日後のことだった。

「……というわけで、野球部の部活動は普通にするが、決して騒がないように」

 監督からのその話があったとき、部員の多くが「マジか」と多少なりと浮かれる中、俺は(教えろよ!)と苗字めがけ、心の中だけで、届きもしない叫びをあげた。いや、教えてもらったところで、何が起こるわけでもないんだけど。
 彼女が主演を務める少女漫画原作の映画――弓道部に所属する三年生の女生徒と、二学年下の後輩男子との恋物語を描いた作品らしい――のモデルとなった弓道場は、俺が通う大学の弓道場らしい。なんでも、作者の出身がこの大学だとか。
 大学は既に冬期休暇に入っていて、部活動や研究室での活動がない限り、わざわざ登校する生徒はいない。余計な混乱を防ぐため、映画の撮影があることはぎりぎりまで伏せられていた。

 弓道場は、野球部のグラウンド横を抜けた先にある。
 当日、カメラや音声マイクなどの機材が運ばれていく様子をちらりと見ながら、「苗字ちゃん見えたりすっかなぁ」と呟いた後輩は、すぐに「集中しろ!」と監督に叱咤されていたのだが。

「なあ、アレ、アレそうじゃないっすか」

 図太いのかなんなのか、ちっとも凝りてないらしい彼は、水分補給中の俺の裾を引っ張りながら、グラウンドの向こうを指差した。
 弓道着を身に纏った女が、凛とした姿勢で歩いている。
 苗字だ、とすぐに分かった。
 彼女の周りにも同じ作品に出演する俳優がいたけれど、その誰よりも綺麗だと思った。贔屓目かもしれないけれど。
 「気づくかな〜」なんて言った彼が、ぶんぶんと手を振った。「おい……」呆れたように声をかける俺を無視して、彼は笑顔のまま「苗字ちゃんって、なんか、野球好きらしいですよ。こっち見るかも」と呟いている。知ってるけど、と喉元まで出かかった言葉をぐっと堪えた。後輩は苗字を推しているわけではなさそうで(多分ただのミーハーっぽい)、俺と彼女が同じ高校出身だという話には一切ならない。
 ふ、と足を止めた彼女がグラウンドへと視線を向けた。そして、隣にいる俳優かマネージャーに何かを告げて、こちらへとゆるゆると手を振る。「うぉっ」と、それまでは部活に集中していた先輩までもが動揺していた。万が一がないよう、俺は視線を逸らすだけ。
 苗字はすぐに、弓道場へと向かって姿を消す。その表情がはっきりと見えなかったことが、なんだか少し、残念だった。
 弓を引く彼女は、きっと、あの頃と同じように綺麗なんだろう。
 ちょっと見てえな、と、ふと浮かんでしまった想いが大きくならないように、スポーツドリンクを飲み下す。



 「あ、思い出した!」と後輩が声を上げたのは、その日の練習後だった。
 何をだよ、とアンダーシャツを脱ぎながら、チームメイトの一人が律儀に返す。新田という名前の彼は、今年の秋に先輩が引退した後、新キャプテンとしてチームを引っ張っている。ライトの四番。野球の実力はもちろん、周りをよく見ていて、気遣いもちゃんとできるヤツ。試合や練習では厳しい発言をすることも多いけれど。

「苗字ちゃんといた男優の小畑なんとかですよ。共演者に手出したって、ちょっと前に炎上してたんす。ヤダー、苗字ちゃんも毒牙にかかる……!」

 イーッと歯を見せて嫌がる素振りをした彼に、新田は苦笑した。

「炎上つったって、噂だろ。事実なら干されたりするって」
「分かってないですね、先輩。芸能界ってけっこうどす黒いんですよ。事務所のゴリ押し、不祥事の揉み消し……。小畑なんとか、顔が良くて人気だけはありますからね」
「お前は芸能界の何を知ってんだよ」

 呆れながらも馬鹿にしないところに、新田の人の良さが表れていると思う。

「あーあ。苗字ちゃんに気をつけてって言いたいくらいです」

 そうボヤく彼の話を右耳から左耳へと流していたら、ふと視線を感じて顔を上げた。「あんだよ?」ポジション争いをすることもある同級生とばっちり目が合い、思わず眉を寄せた。彼は「いや……」と少し言いにくそうにした後、「お前と苗字名前って、一緒の高校じゃなかったっけって思って」と零した。
 げ、と顔が歪む。タイミング考えろよ、バカ! そう言うより先に、「マジッすか!?」と例の後輩が飛んできた。

「倉持先輩、高校どこでしたっけ」
「青道だよ、前も教えたろ」
「そーでした、そーでした! そっか、あの御幸一也と同じトコ! 苗字ちゃんまで同じだったとは」
「……」
「倉持先輩、おれの代わりに! 苗字ちゃんに小畑には気をつけろと!」
「アホ、そんなこと言う仲じゃねえっての!」

 後輩の頭を押し付ける勢いで断固拒否の姿勢を示しながら、「言わんほうがよかった、スマン」という顔をした同級生を軽く睨んでおく。
 ぎゃーぎゃー言う彼と共に寮に戻り、俺より多少なりと体格の良い体を押し込んで自室に戻った。高校時代と同じ、寮生活。ただ、昔とは違って一人部屋を与えられていて、自由気ままに過ごせている。

(久々にゲームでもすっかなぁ……。その前に風呂と飯……)

 例の後輩と遭遇しないように動くことにする。「一番風呂〜!」と寮を駆ける姿をよく見かけているので、たぶん今日も先に風呂へ向かっているはず。
 食堂内は、まだ人がそれほどいなかった。
 でかいハンバーグが乗った皿を取って、席に着く。テレビでは、過去の練習試合のビデオが流れていた。それを横目に、何気なくスマートフォンの画面をつけた。苗字からの連絡は、やっぱりない。
 前までなら、『今日いたね!』とメッセージが送られてきてもおかしくなかったのに。
 そんなことを考えて、ふと、後輩の言葉が過ぎった。

 ――苗字ちゃんも毒牙にかかる!

 まさか、とは思う。苗字に限って、やすやすと男に騙されるとは思えない。でも例えば、撮影後の飲み会とかで、俺の時みたく、そういう雰囲気になったり。

「……」

 メッセージ欄にぽちぽちと文字を入力してみる。あの俳優とは飲みに行くな、とか直接的な注意ができるはずもないから、まずは、今日大学来てたな、とか。それから……。と、ひとまず打ち込んだ文を読み返して、(いーや、ねぇわ)と冷静になった。こんなもん送ってどうすんだ。打ち込んだメッセージをバツ印のボタンを押して削除していたら。

「おっ、先輩! スマホ弄りながら食事とか、行儀悪いですよ!」
「うおっ!?」

 ガッと肩を組む勢いで、例の後輩が現れた。衝撃で手、というか指が滑って、あっと思った時にはメッセージ欄の送信ボタンを触っていた。

「あ゛ーー!?」
「ウワッ、うるさ!?」
「おま……っ、お前ぇ!」
「ええっ、何すか、何すか! ちょ、あんまくっつかないでください! おれ、今シャワー浴びたとこなんです!」

 体の前で大きくバツ印を作ろうとする彼の胸ぐらを掴み、ゆさゆさと揺する。「なんだ、喧嘩か?」と辺りがざわつくも、すぐに「あー、あの二人がじゃれてんのか」と零されて、大きな騒ぎには発展しなかった。
 手を離し、大袈裟に咳き込む後輩を無視して、トーク画面を確認する。
 『今日大学来てたな。弓道の漫画の撮影だろ?おつかれ。つーか、今度飯でも』
 ああー! と、心の中だけで絶叫する。クソ、せめてもうちょい文字が消えてれば。どうする、こうなりゃメッセージごと取り消して。そう、思ってまもなく、吹き出しの左下に『既読』の文字がついた。

「見んの早すぎだろ!」
「ウワ、先輩、さっきから何ですか。情緒不安定ですか!」
「うるせぇ、大体お前が……!」
「ぎゃー! だから、くっつかないでくださいってば!」

 再度その胸ぐらを掴もうとした時、スマートフォンに通知が入った。苗字からだ。返事まで早い。覗き込もうとする後輩の顔を押さえながら、画面を確認する。
 『倉持くんも練習おつかれさま! ご飯いいね。たこやき器もらったんだけど、たこパしない?』
 これまでと変わらない雰囲気で了承されたことに、まず安堵してしまった。すぐに(なにホッとしてんだ!)と自分に怒るけれど、実際、苗字はもう俺への連絡をやめる気なんじゃ、と気になっていたことは事実なわけで。
 とはいえ、また彼女の家に行くことに抵抗がないわけではない。ただ、撮影の話をしている以上、「誤爆です」とは言えないし、「飯とか冗談」なんて彼女を傷つけるかもしれない言葉を言う勇気もない。

(いいぜ、と……)

 悩んだ末、同意のスタンプを送ったら、モガモガと抵抗していた後輩がふと黙り込んだ。そして、じっとこちらを見たかと思うと、「彼女ですか?」と一言。

「は!? ちっげーよ」
「でも倉持先輩、口ゆるゆるですよ」
「……!」

 野球をしている時以外はちゃらんぽらんなくせに妙に確信めいたことを言う彼にムカついて、その頭を叩く。「あいてっ! 暴力だ! キャプテンに言いつけますからね!?」きゃんきゃんと吠えはじめた後輩はすっかりいつも通りで、連絡相手についても深入りしてこない。俺は胸を撫でおろし、ようやく晩ご飯に箸をつけはじめる。